人の死とは・・・続・・・・

脳死と臓器移植について作家五木寛之氏と梅原猛先生の対談の中で、梅原氏が臨調における討論のなか、『人口呼吸器はしているものの、体は温かくて呼吸している。しかもお産は可能。ひょっとしたら人口授精ならお産も可能である。そういう人を死人とするのは実感にもとる』と言ったら、元東大総長が『実感なんかに頼るのは科学では無い』と。私(梅原)は、長い間ずっと物を書いてきて、実感と矛盾しないことを根拠に書いている。実感は非常に大事であり、それを抜きにして科学が成立するのは大間違いだと思う。死というのは一種の儀式であり、脳死を死とすることは、それを医者のみが判定できる密室の秘儀に変えること。今までの心臓死は、「ご臨終です」と言ってから、だんだん冷たくなり、そこで公の死の儀式が行われる。脳死を死とすることは、この大切な死の儀式を消滅させてしまうことである。

五木寛之氏曰く、『脳死だけにしぼって考えると、人間と言うものはそもそも全身的なものだと思う。つめの先から髪の毛に至るまでが人間である。それらと脳はお互いに支え合っているという関係。精神は足の指先にも、心臓にも肛門にも、あるいはのど仏にも存在すると。例えば、大和の側から、二上山のかなたに落ちてゆく落日を、幼い日の恵心僧源信は、どう言う思いで見たかと考える時、陽は徐々に沈んでいって、沈んだ後も西の空には鮮やかな夕映えが残り、それが紫色に変わって、やがて次第に暗くなってゆく。その中間の時間が家族とか周りの人たちにとっては大事なんです。体が冷たくなり、死後硬直があり、皆がそれに対して別れを告げて、儀式を行ってそうして、徐々に徐々に死が周りの人間に認知されてゆく。人間の死とはこういうものだと思う。』(少々言葉を省略)

私が母を5年間病院に預けながらの介護を背負っていた時の死の一ヶ月前、『有難う、本当に何とお礼を言ってよいか分らないほど貴方は私を良く看てくれた。私に対する介護を思うと、私は今まで生きてきた自分の生き様が恥ずかしい』と私の手を握り締めて語った。その後、母は余り口を聞けぬ人になったが、私に対しては手で力一杯握り返して感謝を表した。亡くなる数時間前、母の病室にいた際に、病院の医師が私の立場もわきまえず、大声で勝手な理論をいつものごとく展開した。彼女の大声に釣られてついつい私も大声で返した時、ふと母に悪いな・・・と母の顔に目をやった。ところが余りの大声の会話が耳に入ったのだろう。母は満面笑みを浮かべて笑っていたのだ。母には私がそばにいて大声で騒いでいるのが聞こえている・・・私は直感した。その一時間後に母は亡くなった。



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