娘をうつに追込んだ原因は?

娘の勤務先に(困ったさん)がいた。(困ったさん)は、何かと自己中心で、休日・祝日・長期休暇をお互いに都合つけあって取る時も、何時も自分中心。人様に譲るということがない。仕事でミスを犯すと、全部人様の責任になすりつける。

自分は只ひたすら『よい子』と言われるように主張。しかも、上司の前では、使い方よろしく、絶対服従、おしとやかに。でも、そんなこんなで同僚たちは、返って反感。波風を立てないように表向き装うが、内心は面白くない。

娘の話では、妹があり何らかの障害者なのだそうだ。(困ったさん)一度結婚しようとした時、相手の男性に、彼女の親が『結婚したら、一生義妹の面倒を看る』と一筆書くように迫ったらしい。そこで結婚話は破綻に。

常に(困ったさん)は、親にとっては出来のよい子で、妹の責任を一生看るようにと、言われ続けられているらしい。ここまで聞くと、返って(困ったさん)がお気の毒に。

20歳代の娘にそこまで強制させるなんて。そのために国の厚生保護法という法律があるのにね。頭からすっぽり忘れてしまっては困るが、四六時中姉だからと言われたら姉もかわいそう。

我が家での会話も(困ったさん)に同情をするようになっていった。ところが、そうこうしている内、(困ったさん)そううつになってしまい職場を休職に。

上場会社なので、それらの対応はきちんとしており、月給も出るし、病院との連絡も密。状況を見ながら少しずつ復帰出来る様になっている。

しかし将来を心配されたご両親が、まだ療養中の身の(困ったさん)を『会社に行きなさい』と命令をしているとの事。だんだん目つきがおかしく、発言も何か変。同僚や人事が引き止めるのに、出社して、強引に禁じられている法を破り席につこうとする。

これでは、親が悪くさせているようなもの。既に会社から通告をだされ、退職勧告をうけた(困ったさん)。今では、彼女についての情報は、全く分からない人になってしまっている。親の責任は重い。
  


優しさはどこから?子供の育つ環境は

昨日は私の父が幼少時代母親が継母であったため、我慢に我慢を重ねた悲惨な生活を送っていたと思われた方も多いと思う。
そして我が家の生活もすべて我慢を強いられたかなり惨めな生活と。

父の生まれは明治35年。生誕は、山形県旅篭町、祖父は33歳で今で言うと副知事であった。

父はその継母自身が料理した世界に二つとないような料理を私たち家族にふるまって見せ、三番目の子供の私がそれを正しく引き続いだ。従兄弟達の中で私だけが引き継いでいる。

26歳で38歳の祖父と結婚した祖母はそれまで高等女学校で国語教師。直前に訪ねたとき少々認知症気味ではあったが、英字新聞とフランス語雑誌が積まれていた。

フランス人からは、鳥の丸焼きを、そしてアメリカ人からは、独特のアップルパイを。私が子供時代、今から60年も前に、父は私を助手にして、それらを料理して見せた。以降小学校高学年になってからの私は、それらを巧みに料理できていた。

我慢を強いられながら、ちゃんと愛情も受けていたのである

今で言うと、高級官僚、政治家の息子であった父は、動物好きで、親とは方面がまったく異なる獣医専門学校に学んだ。牧場主になりたい、養鶏場をしたい、デンマークに行きたい・・・・など、我慢といいながら、希望も言えたのであった。

老兵として戦争にとられ(35歳)、無事帰り私が生まれたが、なけなしの田畑は、農地解放、母が必死で貯めた預貯金は、預金封鎖でただの紙切れに。そんな中で幼児期を迎えた私。今思うと、東北の地震にあわれ辛うじて家が残っておられる、現在の被災者の方たちの生活と似た状況ではないかと想像している。

そんな時代の中、我が家の生活は、世間様のそれとはまた大きく異なっていた。

鶏が裏庭を駆け巡り、ヤギを飼い乳を絞り、羊を飼いその毛で私たちのセーターになった。母は編み物が得意で、羊から刈り取った毛は、N市の毛糸やさんに。原毛になった毛糸を、母は、私と姉との希望を聞いて、一年交代で好みの色を選択
してセーターを編んでくれた。


古く小さくなったセーターは、編み戻しされ、熱湯で伸ばし、更に好みの色に染め上げられ、また希望の形に編み上げられた。姉が大きくなると、編み変えは姉の手に代わった。兄弟は、下の子を虐めもするが、親変わりに何かをしてくれもした。

手袋も、靴下も新しい純毛の糸で編んだ毛糸類は、当時手に入るものではなく、子供心に暖かい満足感があったものである。

父は、鶏をぎょって軟骨(首)の骨を庭石をきれいに洗った上で金槌で長いこと叩き、『何とかいう、高級料理』ということでこれは、私も大好きな好物であった。

母は、昭和25・6年はまだ日本の田舎ではマヨネーズなんて誰も知らない時、サラダオイルを買ってマヨネーズ・ドレッシングを作った。サラダオイルは、子供の足で10分以上歩いたところ。買いに行くのは私の役目であった。

山羊の乳は、私たちばかりでなく、東京から帰られたばかりの本家の子供たちのために、やはり戦争から無事帰還されて、残された農地を耕していらした東大卒の『偵三』さんが一升瓶を提げて取りにこられた。偵三さんは、性根お優しく、食事は家族ととらず、女中・作男などの使用人と常に食事をともにしたという。母は、偵三さんを菩薩様の様に褒め称えた。

その後数年にして、自分がシベリアから帰された事を悔やみ苦しみ、シベリヤに残された戦友を日本の領土で迎える為に、敢えて仙台に行って居住の地とされたということだった。

我が家の敷地は広く、一見森の中にある赤い屋根の洋館であった。時々森と間違えたハンターが銃を構えて家に入ってくるのは、恐ろしい経験であった。庭には大きなクルミの木があり、クルミ入りクッキーは、常に用意されていた。私も簡単におやつに作ったものだ。

今、思い出すと何もかもが懐かしい。沢山のお手伝いを強いられながら、あまり嫌だと思うこともなく、我が家の生活は自然そのものであった。

常に犬と猫は飼われており、家族の中で一番面倒を良く見たのは、一番小さい私であった。当時ねずみが多くそのための猫であったため、猫いらずを食べたねずみをと捕った猫は、必ず泡のようなものを吐いて最後には苦しんで死んだ。

母親が死んでしまった猫の子を、子供を産んだばかりのセパード・リザのお腹においた時、リザは、自分の子を鼻でどかして、より小さい猫の子供たちに自分のお腹を貸した。そうして、猫の子はすくすくと大きくなった。父は、黙って色々教えてくれた。

これらの一部始終を、見つめていた私には、母親が子供を虐待するのに驚きを隠せない。犬は、大きくなった自分の犬の子を離してまで、より小さな猫の子に自分の乳を与えたのにと。

私が(弱った犬が道にいると)父に報告すると、家で砂糖湯を飲ませたり、生卵を与えたり、薬を与えたり。数日間、私に介護やら食事の用意をさせた。

元気になると、道に放した。帰ってこないと『無事家に帰ったな』と喜んだ。それらの小さい面倒を全て私にさせた。
弱いものたちを黙って面倒見る・・・・これは父から自然に受け継いだと思う。


お金は無い無いといつも言っていた両親だが、自然の中で、それぞれの愛情をみて育った私は、幸せな、最高に幸せな環境で育てられたのだと思う。

日本は大きく経済が成長し、親は仕事で忙しく 家で何かを作ったり、作り直したりすることも珍しくなってしまった。

親が子供の見ている前で子供の手袋を編むとか、お腹をすかす子供のためにパンを焼くとかもない。コンビニで買ったおやつは、それだけのもの。

子供の問題、そううつ等の精神の病、もう一度原点に返って人間らしい生活の一歩から始めてみるのも良いのではないか。

薬に頼ったり、全て医者に任せっぱなしにするのでなく。

  


幼少期の習慣が人生を左右する

昨日今日と福祉をするつもりでなく福祉になってしまったことがある。3年前に当会社所有の貸家5LDKに入居されたNさん。入居のときには、随分と羽振りのよいことを吹聴されていたが一年ほどでお家賃は遅れがち。一年前から家賃は遅れ遅れでついに三ヶ月未納のまま。

夫に美味い事言われ信じきっていらした妻子もお気の毒。だが、未納にも拘らず退去の様子もない残された家族たち。
退去のお願いをしても『三ヶ月ばかりの未納で何で出なくてはいけないの』とおっしゃる世間知らず。

ここで話しは一転し、ご夫婦で離婚のお話がまとまり、さてその後の貸家を斡旋してくれと。一年前も依頼されたが『未納家賃ある人に次は斡旋できません』とお断り。

しかし残された家族の内情をお聞きするにつれ、仕方なく次を斡旋。不況の中、中々貸家の借主も決まらない貸家業の辛さ。そんな中、未納者に次の家を斡旋しなくてはならない矛盾。こんな些細なことも心の中で葛藤となる。

次々と降りかかる種々の問題を解決する中で、私にとって一つの法則がある。

お金の問題は、ただ耐えること、忘れること。

そうすると気持ちがぐっと楽になる。今までこうやって何回潜り抜けてきたことか

《財産を失ったのは、いくらかを失ったことだ。名誉を失ったのは、多くをうしなったことだ。
勇気をうしなったのは、すべてを失ったことだ。》 
ゲーテ


午後、彼女の父親が相談にきて、娘の至らなさを嘆いた。次の貸家への当社で斡旋したものよりもっと安い価格帯のものを、父親として進めてはいるけれど。娘は、社長さんから離れる気がないと。

これをお聞きし、私の葛藤は漸く治まった。○十万の家賃と修理代の損失は当社にとって、この不景気の中で大きい。でも交通事故にあったと思い我慢しようと。

そして、父親に『お金のなくなった事は不幸の中でも一番簡単なこと』と逆に説得。今後の家賃は父親が支払うことになっている。

父親も長いこと、娘の不出来なつれあいさんに高額な資金援助があった様だ。でも、娘さんとお孫さんたちは、心身ともに健康。お金の問題は、耐えるには一番簡単なこと。慕っているその娘さんが私を信じて・・・に只管(ひたすら)我慢。

心の切り替え方は、この年になると上手くなくてはいけない。それが年の功と言うものだろう。私は、ここ数十年間、大変な時、何時も自分に言い聞かせる言葉がある。

『人の一生は重きを負うて遠き道を行くがごとし。

急ぐべからず。不自由を常と思えば、憂いなし、

心に望み起こらば、困窮したる時を思い出すべし。

堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。

勝つ事ばかり知りて、負くる事を知らざれば、害その身に至る。

己を責めて、人を責むるな。

及ばざるは、過ぎたるより優れり。


















父の生母は、父が4歳の時亡くなった。若い継母には、大所帯の中での母親役は重荷だった。

父達先妻の子供たちは何かと寂しく、兄弟慰めあって生きていたようだ。

社会的地位が高い祖父は、黙ってそれをみて、夜布団に入った頃、こっそりと子供の枕元に座り込み

大きな体を小さくして、『申し訳ない。我慢してくれ』と繰り返し言われて大きくなったという。

だから私の幼少時代、何かと兄姉に苛立ちを抱いた私に、ただ只管、同じことを繰り返した父。

枕元でなかっただけであった。子供時代から何事も思ったようにはいかなかった生活。

しかし、だからこそ《諦めと言う言葉と耐える

と言うことを身をもって知っている。

幼少期の習慣は一生を左右するものだと思う。
  


母子の関係もうつの原因?

4月23日付けの《カーリングペアレント》4月24日付けで書いた《うつから脱却する方法》書きながら私の心に常に引っかかっていた人があった。半分彼女のことを思いながらの内容であった。

日本の勤労者の平均年齢にして、躁うつ病で治療中、しかもこのことが2年近くも続いている。彼女は当社管理アパートの居住者。入居されてからすでに10年近くになる。

入居数年後には、お家賃の支払いが悪くなり、母親と連れ立って、幾度もお家賃の遅延の理由を誤りながら、家賃値下げの依頼にみえている。母親の年齢は私とほぼ同じ、彼女の年齢も私の娘とほぼ同じ。

東京で《この世の春よ》と言えるほど青春を謳歌し充実した生活を営んでいる娘。東京都港区六本木に職場と居住地がある娘と友人たちの日常は、田舎に暮らす私から見ると眩しいほどに楽しそうだ。

それと比較して同じ年齢でありながらついつい比較してしまうのだが。お気の毒で何とかならないものかと人事ながら何時も気にかけている。

お母様の人柄を見ても、常識あるきちんとされた方なのに。何が我が家とこんなにも違うのだろうか。

お洒落もしないで大きな体を小さくして、そして高齢期といわれる年齢のお母様は、娘のため、家賃のために日夜働いていらっしゃる。

娘が大学入試のとき、私は仕事が忙しく何もしてやれなかった。学校の選択、受験・宿泊ホテルのこと、いくつもの受験を考慮しての電車の予約等、すべて娘に一任せざるを得なかった。

勉強は不十分でも、それらを何とか一人でこなした娘。私がしたことはお金のことと、入学式についていっただけ。就職のときもアパートは一人で探しに行った娘。結局不動産業の母親が上京して、ワンステップ上のアパートに変更にはなったけれど。
もちろん、縁故採用を望んだ娘に、ノーと。

娘の身の丈にあった就職口を自分で捜させ。色々変遷はあったが、世の中の厳しさも学び、好きな東京を離れずにいるには、勉強して資格試験に受からないとと。勉強嫌いがそれなりにチャレンジ。、

先ほどのMさんだが、貸家の申し込みから契約まで全てお母様がいらっしゃった。一度も当事務所にはおいでにならないお嬢さんに???と思った私。

お家賃が入らない時の弁解も何時もお母様からだった。常識的ではあったが、大変によくお喋りされるお母さん。

私にはMさんのうつも全ての問題も、この何でも娘の代わりにお喋りし、なさってしまうお母様が原因の一つなのでは・・・・と。

今日、偶々お電話を頂いたので、《うつを直す本》のことをお話した。本2~3冊の事なので買って上げようかとも思ったが。こんな時、自分でお金を出してこそ。人様が買ったものは読まないで終わってしまう。余計なことはしないほうが彼らのためになる・・とは、幾つかの経験で学んでいる。

しかし、かのお母様の反応は悪かった。私は、彼らが抱えている種々の問題の解決の一歩は、まず娘さんの健康と思うのだが。お母様あっての娘さんなのだろう。解決の道は遠そうだ。

  
       


どんな職業にも必要な人間性とは?

職業にも貴賎を問わず、難関を突破しなければ得られない職から、職人の技が問われる職、大きな資本が必要とされる職、数え上げられない職種が存在します。又自分が経営者でなく、サラリーマンの身であっても、サラリーマンとして生きていくための要件と生き延びる術もあるでしょう。

さて、職業としては難関中の難関であるお医者様、これも厳しい勉学が必要とされるばかりか、意外と人気が必要な最たる職業の代表。

日本一の名医として、技術のみで患者が順番を待たされるほどの名医ならいざ知らず、開業医ともなると、まず、技術よりも人気が大事。

某公立病院で、無愛想と評判が悪かったA先生。開業されたとたん別人かと間違えるほど愛想よくにこやかに変身。何時もニコニコで患者さんたち『どうされちゃったの』と。

ところが、婦長さんとの仲を疑いだした奥様、毎日診療所に顔をだして、患者さんたちに婦長の代わりに問診を。患者さんたち、奥様の言うこと聞いてよいやら、婦長さんの言う事聞くべきか。その内に、先生自身ノイローゼになり、一時医院は休診に。

そんなこんなで色々変遷の挙句、奥様が自殺されたと。

私は、一方的にお聞きするばかりの噂話であったので、詳細は判らずじまい。苦労して医者になり開業までこぎつけたのに、この夫婦には、よき友人相談相手がいなかったのかと残念に思う。

我が子を医者にするため『性格なんて、どうでも良い。医者にさえなれれば良い』と憚らなかった父親の話も知っている。

彼らが医者になった時、患者に対して、心からの微笑みはできず、つくり笑いをするのであろうか。大人になってから、急に人気を得ようなんて、土台無理なことだ。

どんな職業についても大事なこと。それは、人間として誠実であり、正直であり、暖かい人間性である。つくってまでニコニコしなくても、それらは自然と、相手に伝わるもの。

彼らが大きくなった際に『達と言われる人』であるには、育てる人《親でも里親でも施設の人でも》が、人間教育にとって、何が一番大事かと言うことを熟知していなければ出来ない。



今日、アパートの元居住者Kさんが、親が無い20歳の青年を連れて部屋を借りにきた。聞くところによると、雇い主に依頼され、連帯保証人から全て、Kさんが面倒を見るという。

これから新しい福祉が一つ始まる。
私も出来る限りの援助をするつもりでいるが、三人の努力が、いつか美しく花咲き実ることを期待したい。

今年はぼんぼりもなくお客も少なく、ちょっと寂しい臥龍公園のさくら。小雨の中でしたので、少しぼけています。

     


女性を顔で見くびるなかれ 何時か仇をとられます

親しい仲の取引先の恵美子さん。御付き合いも20数年。私達、家同士の深くて永い、因縁ある親しい間柄。
ある時こんな話を。

生家のある某市のデパートで、幼なじみのSちゃんとバッタリ。Sちゃん恵美子さんの、同級生、従兄弟、親の代に彼女の生家から分家。そのため分家として彼女の生家では、田畑沢山を与えてある。

当時、Sは某国立大学の名誉教授、彼の妻は、恩師の娘,すなわち教授のご令嬢。恵美子さん、そんな彼の立場、従兄弟ゆえ全部知り得ていた。

出会いは○十年ぶり。Sうやうやしく恵美子さんに妻を紹介。『やあ、ご無沙汰致しております』そんな改まった会話、彼とは初めて。恵美子さん曰く、気どって、どこからあんな声でるかと。

『恩師の○○教授のところに婿に行き、今は●●姓です。◎大学におります』と某国立大学名誉教授の名詞を渡した。

『こちらは、妻の△です』と言い終わらないうちに、恵美子さん、大昔の仇、ここぞとばかりとりましたとさ。

『なにさ、おめさん(お前さん)、おいらの家でやった(あげた)田畑婿に行かなきゃなんねえ程足んなかったかえ。小糠三合も無かったかい』

注:小糠(こぬか)三合あるならば入り婿 (むこ)するな. 男はわずかでも財産があるなら、他家へ 入り婿せず、独立して一家を構えよ。 ... 又、入り婿の苦労の多いことのたとえ。諺

彼,まっかっかになり、そそくさと去っていったと。

なぜかって。子供の時から太っていた恵美子さん小学生の時、どんなに離れたところにいても『エーミ (恵美子)、お前ほどのブスはな、絶対シャレるなよ。ブスはシャレればシャレルほど見っとも無いからな』と大声で沢山の友達の前で、言われ続けてたと。

で私、『わざわざ酷い言葉で奥さんの前で大恥をかかせて、昔の仇をとったわけね。』

恵美子さん『そう、アハハハ。一生の恨み一度で返してきた』


ところで、皆様この不景気の中、売り上げもバッタリ、これから先どうしようか・なんてお悩みの方に。

私は、お節介というか、何事にも興味を持ってしまう、特にややこしい事に。難しくて厄介なこと程興味をそそられる。しかも、それらを全て勉強と思ってしまう楽天家。

ですから、難しい人様の困りごとをお聞きすると、無償で解決に一役買ってしまっていることが多い。何ら、見返りを望むものでもなく、少々の出費があっても、余り気にしない。

ところが、ここ10年以上の仕事の御利益は、昔助けたそれらの方たちからの仕事が多い。見返りを全く期待しないで成したことなので、後々に、その昔のことを思い出し、感謝している。

孔子の言葉に
仁者は、難きを先にし 獲(う)るを後にす、仁者と請うべし  とあります。

これは、仁者は難しい骨の折れる仕事を自ら進んで引き受け、それによる利益は問題にしない。
これを仁ということ。

有難い事に、仁者でなくとも『情けは、人のためにならず』の諺どおり、人様にかけた情けが、今自分に、返されている実感があります。

利益の上がることのみしかしないのでなく、たとえ、利益がなくとも、僅かの出費なら人様の困っている時は、その人のために、自分にできる事なら、進んでお手伝いする事をお勧めする。、

これは、理想論でもなんでもなく、まさしく私の経験から申し上げている。上記にあるお話の恵美子さんとの関係もそのようなことから、深いお付き合いに至ったもの。

今、田舎の小さな企業で仕事ある人達は、過去にそのような形で、人様の苦境の手助けをされて来た方達なのでは・・・・・と思っています。
  


うつ病脱出法

東日本大震災以来プッツリとなくなり喜んでいた宣伝メール。『今までどおりの生活を』と呼びかけが始まると、また一日200通くらいのメールが入るようになりました。全部が迷惑メールではありません。とってもためになるメールもありますが。

うつ病はこの季節、若葉芽生える頃特に起り易い。当社でも時々病んでいらっしゃる方にお会いする。
 
以下はそれらの一つ。うつ病から脱出する方法。

うつになり易い、深刻で中々直らない人は、子供の心が強い人。反対にならない人、なっても回復し易い人は、大人の心の強い人。大人の心を持つための方法とは

うつを敵視しないで『うつとは自分を守ろうとしているのだ』と想い、仲良く付き合うこと。
うつ状態を回復するということは、自分を変えるよい機会と思うこと。
ゆっくり味わい、ゆっくり歩く。体を動かしたり、呼吸の仕方を工夫する。

いくつかのエクササイズを実行して、今の生活とのバランスを取り戻し、
自分が無くしつつある自信を取り戻すこと。

※とにかくうつがひどくて毎日が辛い
※夜は眠れないし、朝起きるのも辛くてたまらない
※毎日不安に押しつぶされそうになる
※いつ治るのか、いつ働けるようになるのか不安でたまらない
※病院で出された薬を飲んでいるが一向によくならない
※再発を何度も繰り返している
※もうこのまま治らないのでは・・と不安になる


より詳細をお知りになりたい方には、以下に


下園 壮太(しもぞの・そうた) 心理カウンセラー

http://arizbn.com/cs.cgi?m=gun2&c=12&u=29407


因みに、不動産業はある意味結構、大変な仕事です。

不動産業は大きなお金が動く、私の場合も、儲かっているように見える(実際は無料でした仕事も、同業者にはO千万円も儲けた・・・)と思われて。

その結果、同業者のやっかみ・嫉妬をかいます。それは凄いものです。芸者さん呼んでお座敷で、お酒飲みながら、焼きもち通り越して怨み辛みが延々と続くらしい。

呼ばれた芸者さんのお話。なにせ、男と言うもの女性より遥に、嫉妬深いらしい。私がそれらに挫けず今日も悠々と存在している理由。

それは、悪口ありもしないこといわれても、全く苦にしなかった。むしろ、『10年たって、見て御覧なさい。お気の毒な方達。あなた方は焼餅だけしか言えない人。私はその間一生懸命働いて実績を築く人。全然気になりません』と。

これ以上の迷いも無く、それらを全く無視できたのです。

あれから20年歴然とした信用と経済の大きな隔たりが出来てしまったと思います。もちろん一所懸命働いていた方々は、悪口も嫉妬もやっかみもありません。もう皆様、昔そんなことあったことさえ忘れているでしょう。

私は彼らに言いたい。

『有難う。あなた方のおかげで現在の私がある』と。

昔、お客様の家に『花は、雨に強く打たれれば,打たれるほど、綺麗に咲くのだなあ』と額に紫陽花の花とともに描かれていました。

『よい言葉ですね』と私。そのおじいさんも『やあ、これを理解できるのは、少ない』とおっしゃって。苦労も、人との葛藤も全て心の持ち方一つなのです。

末尾に。我が敬愛すべき孔子先生、彼の兄弟たちは、彼の名声に嫉妬しやっかみ、孔子先生を無視し一生兄弟の付き合いはなかった・・・と記憶が。
      
        嫉妬やっかみは恐ろしいものです。
  


カーリングペアレント

ある母Aさん
Kさん大学生の時、スポーツカー欲しいと母親Aに。我侭だったKさん《スポーツカーが自分に身分不相応》なんて、考えることもなく。

母Aさん、『買わない』ともいわず車のセールスマンの長い説明を。Kさん、もちろんスポーツカー買ってもらえるものと。
ところがセールスマンが来て、ナガーイ説明を聞いただけ。Kは、母親がセールスマンの説明を聞くと言った時点で、もちろん買ってもらえるものとばかり。何の反応もない買ってくれる様子のない母親に、大恥をかいたとも。だから二度と同じことしないと。

もう一人の母B
中学生になっても、勉強もせず、遊んでばかりの娘。毎日、台所でケーキ焼いたり、友人呼んで大騒ぎ。中2のお誕生日、『パーテイをするから』と母親の反対押し切り友達5~6人招待。(もうその当時、誰もお誕生パーテイをする友人もないのに)

母の反対無視しても、お誕生会として友人招待してしまえば、母は、絶対ご馳走してくれると見込んで。何時も、勝手、我侭、勉強嫌い、遊ぶことばかり。親に迷惑をかけても悪いとか済まないなんてちっとも思わない。母親の忠告を聞くこともなく、大きなケーキを作り。あんなに反対しても『お母さんは、絶対美味もの沢山用意してくれると』信じきって。

母は、その時、一大決心。(どうしたら、我侭勝手な娘の根性を正せるかしら?)と。

娘の期待を裏切り家出。(実は、様子を探るため隠れて)数時間後、プレゼントを持参の友人たち次々と来訪。母は、Sに見つからない様に、そっと居間を覗くと、テーブルの上に娘が作ったケーキがひとつ。

友人たちは、Sへのお誕生日プレゼントをケーキの周りに置き、いつか母が美味しいもの沢山持ってきてくれると信じて。
彼らがじーっとケーキを見つめていたその時間、母にとってはとても長いこと。

この母、ご馳走を振舞うよりも、何もしないでいるほうが、余程辛くて大変。友人を前に娘に大恥をかかせないと、娘の勝手我侭は絶対直らないと。一大決心しての大冒険。

ストーリー①のKさんは、野球選手長嶋茂雄様のご長男一茂さん、母親は亡き亜希子さん。これ以後、こんな恥をかきたくないので、一茂さん、二度とこんなことはしなかったと。

ストーリー②は、我が家の話。私が、忙しい・・・・といえば、それ以降は、我侭も多少は我慢するように。

こうして、親たちは、子の独立・独り立ちのため、知恵を出して恥をかかせて、我が子可愛さの為、一人前にするために苦労しているのです。

今朝テレビで、29歳の息子が働かず生活費/こずかいを老親にせびっているけれど・・・と言う相談に対して、長嶋一茂さんが答えたものです。②は、それを聞きながら、数十年前を思い出した私。

長嶋亜希子さん、見事ですね。
子供に対して、『親がいなくては、子供がだめになる』と何時も子供をサポートし、自立できないようにしている親のこと、カーリングペアレントというそうです。

オリンピックで日本・カナダ選手などが活躍しているカーリング。あのボールが子供。親と子供の共依存が強化されてしまった関係とか。

親は、何時でも薄情になれる・・・と子供に対して、演技のひとつもできなければ。我侭子供は一人前にはなろうとしません。
  


福島原発工事人の今後

「今回食った(受けた)分の放射線量は手帳に載らないから。安心していいから」。3月末に福島第1原発の復旧に従事した2次下請け会社の男性(30)は、作業開始直前、1次下請け会社の社員にそう告げられた。

 男性は3月下旬、所属するポンプ点検会社の社長から「上の会社から3日だけ人を出すよう頼まれた。(現場の状況が)ひどかったら途中で帰ってきていいから、とりあえず3日間だけ行ってくれないか」と言われ、同原発へ。作業内容は不明のまま駆り出されたが、現地に着くと、使用済み核燃料共用プールの電源復旧のためにケーブルをつなぐ専門外の作業を指示された。
「とにかく人をかき集めて電源復旧をやっている感じだった」

 現場で経験者から指導を受けながら作業を進めたが、「初めてなので手間取って時間もかかったし、余計な線量を食った」。当時は線量計が足りず、6人のグループに1台だけ渡されたという。


 作業は放水の合間だったため、午前2時までかかったり、朝6時から始めたことも。待機場所の免震重要棟は「すし詰め状態で大人1人が寝っころがるのがやっと。仮眠も取れないのがきつかった。まともにやったら2日で限界」と振り返る。

 結局、3日間で計約12時間働き、線量計の数値は国が特例として引き上げた上限の5分の1、以前の上限の半分に当たる約50ミリシーベルトに達していた。「普段そんなにいくことはまずない」。日当は通常なら1日1万5000円程度だが、今回は事前に決まっていない。ただし「同じような仕事の募集が日当17万円だったらしい」。
3日で50万円になる計算だ。

 男性の放射線管理手帳は、この作業時とは別の、震災前に登録していた元請け会社が管理しており、手元にはない。「ずっと自分の手元に返ってきてないから(今回の線量が)載っているかどうかは分からない」。確認しようにも震災前の元請けは震災後、事務所が機能していない。「自分の手帳を戻すのは困難」と、今後に不安を募らせる。


上記の文章は、今回東電の原発事故の際のYahoo News に掲載された工事人の言葉をそのまま一部書きうつしたもの。この様に杜撰な管理下で工事人の被爆等無視しての作業であったようだ。

この不景気の中、お金が必要、借金がある、断ることで首になったら・・・・工事をされた方たちの恐怖は、窺い知れない。私どものように遠距離にいるものには、風評は流れてきても、真実は判らずじまいだ。


2011年4月16日 午後9時よりNHKで放送された特別番組《マイケル・サンデル 究極の選択 「大震災特別講義 〜私たちはどう生きるべきか〜」》2011年3月11日に起こった東北地方太平洋沖地震について、東京、ボストン、上海の3つの地域から同時中継しディスカッションした内容。で、これらの被爆可能性のある作業についてのデイスカッションが行われた。アメリカの学生から、『お金を与える等、飴を与えて人を募集すべきでない』との発言があった。そうであろうか。

それは、私には、若さゆえの理想論であって、現実これらの作業員の選択については東電サイドとしては、論議している時間的ゆとりすらなかっただろうというもの。

仮にも、危険な作業が本人の意思で選択されたとした場合、危険の重さに比較して、余りにも少ない報酬と杜撰な安全管理であった事が問題。ところが、実態はこの様な安易な選択の中で、人命を軽く見た工事が現在も進行中ということだ。

私は、万が一の事故が発生した場合に、この工事人の会社の上司に人間としての誠実

『すなわち達といわれる人』 であって欲しいと切に望む。

親会社に諂い事故の隠蔽など絶対あってはならない。

人類においては、個人の人権が問題にされ、自由/平等が当たり前にして、唱えられる時代は、近世になってからのこと。

大昔、統一者.王族が亡くなった時、家来、使用人は御柱として一緒に埋められた。中国の兵馬稜は、その後に起こった。

これらは後に人身を殺害して捧げる行為が忌避されるにつれ、人の首(切り落とされた頭)に見立てて作られた饅頭や粘土で作った焼き物(埴輪・兵馬俑)等の代用品が使用されたり、または生涯を神に捧げる奉仕活動を行うという方向に改められるなどして、社会の近代化とともに終息していった。


日本でも、封建時代、当然のこととして身代わり、打ち首等。写真等など・情報がない時代、顔を知りえた人以外は顔実験など不可能。河川の氾濫,供水等の災害を、神に祈願する為に、生贄が供された時代も。

戦争は、いずこも上の人の身勝手で国民が犠牲になったもの。今でもアフリカの民族闘争は、すべてこれらの代表である。

水力発電については、犠牲になる工事人の一定量というものが想定されての工事。事故というものは必ずついて回る。一軒の家を建築するにつけても、足場から落下して死にいたる時も。障害者になる場合もある。だからといって建築工事をしないではいられない。

          私たちは、だから忘れてはいけない。
これらの多くの犠牲者の命の上に、私たちの生活と安全が成り立っていることを。

犠牲になった多くの人を想い、受け止め、自分自身のたった一度きりの人生に感謝して。

           だから、人には優しくと。  


詐欺まがいの住宅地図

一先日、証券会社のKさん、支店開設のご挨拶にいらっしゃいました。不景気を嘆き、株価の低迷を嘆き、お互いに不景気を慰めあい。

地価がどんどん下がる、株価が下がる、これらが資産になっている方は、財産がどんどん目減りしている訳で。もちろんなけなしの私も、不景気の真っ只中。

『毎日特に、最近では震災後、自分が悪いんじゃないのに。下がった、下がったと言われるととても辛い』と。

私が自分自身に≪これらにどう向き合っているか?≫って『まあ、突然死んだら、資産が減った分、相続人の税金は低いわけで。それはそれで、残された者、税金減るので、助かることだから。と思っています』と申しましたら、


『ア!良い答え!これからは、お客様にそう答えることにしよう・・・・』と。お調子ずいた私、『お仕事も暇だから、ブログに凝っています。過去の想い全部吐き出して楽しんでいます。暇だからこそ、自分の好きなこと、見つけたり、始めたり、人生楽しまなくちゃあ。』

『ア!これも頂いて、これからお客様に、そう言うことにしよう・・・・ありがとうと』とニコニコ帰られました。

さて昨日は自分の職務に忠実な孔子流『達と言われる人』についてお話しました。こんなお仕事をされている経営者をなんと呼ぶのでしょう。

皆様もお馴染みの各地方ごとに出版されてる住宅地図です。ここ数年、表紙に掲載する広告に空欄があって困っているからと、泣き付かれ、頼み込まれ『では、今回だけ』と断ったにも拘らず、毎年請求書がきて『はて?断ったはずなんだけど』

お断りするとき、ハッキリ相手に言ったんですよ。『そんなに無理してまで広告とらなきゃ会社運営できないなら、止めたら?』 
『必要とされていない物なら、発行を毎年から5年に一度とかにすればいいのに』

広告請求は、毎年きます。
さて、請求書とともに、3年ぶりで購入した住宅地図。当社で扱った変更箇所チェックしましたら、何ら、3年前に購入したのと、まったく同じでした。

これでは、新しいもの購入した意味がないです。表紙だけ年度を変えて中はそのまま、広告代請求するだけのお仕事。

これは《詐欺》と呼ぶものでしょうね。

古いものでも十分利用できたのです。いらした方、『息子、未だ大学生だし』、とか『今更新しい求職は、無理だ・・・・』とも。

どうも彼らの失業対策事業に貢献させられたようです。

皆様だまされませんように.定価21200でございました。

       


とかく揉め事は後から起こる

信濃毎日新聞おくやみ欄を見ていたら記憶あるお名前の方の死亡広告を発見。「神田覚太郎さん82歳」想い出すと昭和61年、当S市の駅に近い繁華街で、凡そ数百坪の売買のための測量立会いでのこと。

メインの売り土地は『延命の湯』の所有地とその周辺5物件ばかり。総額にして一億円以上の取引。売主で『延命の湯』の元経営者が『金さえ掴ませれば、弁護士は、何でもするよ』と。のたまうだけあり、彼が主体に近隣と境界争いの裁判を延々と数十年とか。

有るベテラン社長さんは私に、『経験も少ないのに、あんな裁判で決着も付かない有名な土地に手を入れて生意気だ』とも。

私はそれまで、売主がおっしゃった裁判云々は、なんとはなくお聞きしてはいたけれど。

寒い中の測量で、測量士がミスを犯さない様、私自身が測量の一挙一動睨んでいた記憶も。当時は、機械測量でなく、テープ当てての測量。図形に不得手な測量士だと、とんでもないミスを犯すことが。事実当時の土地家屋調査士の先生(土地家屋調査士・測量士皆先生)は、大ミスばかり。《今は、機械測量で、写真も簡単に撮れ、プリントまで誰でも可能な時代の進歩》

途中から測量士専門のおっとりY先生に変更。その日の測量も裁判で決着できていない箇所。大騒ぎして、やっとでまとまりました。

私の『今、皆様が損得を超越して、子孫のために、法律で説明できる結果を残して下さい』の一言を、心より皆様に賛同頂いて。

だから、新米の癖にあんな難しい土地に手をつけるとは生意気だ・・・』とおっしゃった社長さん、結果をお話したら、『それは大した事したな。全員の印が取れれば、話は別だ。裁判で○十年出来なかったのだから』と。

後々の揉め事を防ぐため、前日に凡その図面を描き、測量の度に数字を記入、私は更にそこに署名捺印を・・・・要求。

それに対して、測量士のY先生。『こんなに円満に皆納得して決まったものに、印も署名も必要ないよ』

日頃、細かすぎる医者のHさんも『要らないですよ。そこまでしなくとも』と。

でもでも、私は、一軒一軒回り、署名捺印をお願いに。
それを、購入者のH先生(医者です)に渡したのです。
神田覚太郎さんは、杭を打つため依頼した土木会社の方。

その後、数年経過し、其の数百坪の地のコンクリート土留工事をすることになり、突如私は、呼ばれたのです。

床屋のTさんが『境界杭の位置が1mも違うから』と言い出しているので来て欲しいと。境界の杭は、昔は木とか石とか大きいものを目印に。今は測量図に頼るしかありません。でも、其の測量が違うと言われれば・・・・・・。とかく人間の欲は、こうして後々出てくるものです。私が慌てて現地にたどり着いた時、近隣の人々沢山集まり、結構物騒ぎな状態で。今にも、ヤクザの喧嘩でも始まりそうな雰囲気。

と其の時、土木作業の監督でいらした、神田覚太郎さん『立会いの時、社長さん(私のこと)皆引き止める中、一軒一軒印鑑を貰いに行ったはず。其の証拠の紙『絶対亡くさないで』と言ってH先生に渡したよ。だから、先生家に帰って探せばあるはず。

医者のHさん、30分も過ぎた頃、『ありました』と大喜びで。神田さん凄いですね。お名前の通り。全て、見たこと聞いたこと覚えていて下さり。

世の中、どんな些細な事も安易に解釈してはいけません。あの時とった私の行動、関係者に不要と言われれば、普通はしないでしょう。私も自分を褒めたいです。

その神田覚太郎さん、お名前の通りの方でした。とかく地位とか、経歴ばかり追い求め、自分のその時の職務には、意外と無責任な方が多い・・・・・・
         神田覚太郎さんご冥福をお祈り致します。

あの頃、孔子の論語に凝っておりました。そして、地位ばかり追い、職務に忠実でない人が多いことを嘆いていた私。それらと反対に地位を追わず、職務に忠実な人を『達と呼ぶ』と孔子先生おっしゃっておられた事に感動。


同じ思いで毎日を生きておりました私、『ああ、人間は2500年以上経ても、変わらないんだな』と孔子先生との同じ思いに慰められたものでした。
  


人の不幸をあてにすると?

関東東北沖地震が発生して一ヶ月半が過ぎてしまった。想像出来ない程の津波に襲われ、運よく生き残った方たちの語ることは、この世の出来事とは思えないほど、生々しく、酷く、悲惨だ。

遠く離れている長野県でも、東北に肉親・知人がある方たちの運不運、夫々の悲しさも伝わってきた。

しかし、人様の災難を拝借したようなまか不思議な会話も。

貸家のお家賃がいつも遅れたり未払いがあったりのYさんSさん、期日までに振込みの無い方には、催促の電話をかけているが、家賃の遅延が常習の彼ら。夫々の御方、『身内が東北で災害にあったので家賃分を送金してあげた、東北まで持っていった』と?。

3月中旬(2月分のお家賃の催促)地震後一週間たってからのこと、まだ、東北へはいけないんでしょ?送金したって避難所にいらっしゃる方は、受け取れるの?そもそも、自分たちの生活が手一杯で日頃、親からの援助を受けている様子なのに。

東北に縁者があるなんて始めて聞いた・・・・・・・。これは、落語のネタではありません。


忌引きを理由に休暇をGetする話は、聞くことあるけれど。人の不幸は蜜の味・・・ということをおっしゃる方も。

昔、同業者が、不景気な潰れそうな会社を指して、『アレ、今に潰れるから、潰れたら買えばいいよね。潰れてからだと買い叩けるから』と。そういう不謹慎なことを言う方は、その前にご自分が存在しているかどうか。最近お名前も聞いたことありません。

弁護士の友人がおっしゃいました。
家族の中で万一●●が亡くなったら、○○がこうなった時の為にと色々細工をするものではないよ。そうやって自分は絶対死なない・・・と自分の保身に躍起になった方は、大概目的を果たせずに自分が真っ先に死んでしまっているからと。

そう、そういえばあの方も、この方も。私がお仕事で『何で、ここまでするか?』と驚愕するほどの狡さと醜さ。自己保身に躍起になっていらした方たち、沢山たくさん若くて亡くなってしまいました。

あんなに、人様にはけちと言われるほど汚く、自分のために用意万端準備されてきたのに。自分で楽しんだり、人様を喜ばせることなく50歳60歳代の若さで、亡くなってしまった方達。

だから、使い切れない程のお金、その一部を思いきって、東北の方たちの為に使って頂いたらと思うのです。

  


団結して心機一転災害復興

今日日曜日は、新潟県上越市高田城高田公園へお花見にいきました。長野から高速道で凡そ1時間、長野県より被災地に近いので、それなりに大変な中にお花見に行くことに少々ためらいがありましたが。余りの人だかりの多さは、私たちにとっては、少々驚き。

高田城は、徳川家康六男忠輝居城として天下普請によって造営。城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗。

石垣のない珍しい造りで、低湿地に築城されたため排水設備が重視され、暗渠が張り巡らされていた。明治以降、陸軍の駐屯として使用。堀、土塁の一部が残されており、現在は公園として。

行きのバス中の話題は、原発の必要性、節電の方法など、お仲間は、皆経営者ばかりなのでそれなりきな意見が。又宴会に際しては、再度募金箱が回されて、皆一律に一万円ずつ募金。

最後に『命がある私達経営者は、一人当たり100万円位寄付してもいいんじゃないですか。そのくらいしないと日本は復興できませんよ。また頑張って働けばいいのだから』との私の意見は、今日の出席者13名のほとんどの方が、賛同して下さり、宴は楽しく過ごすことができました。皆様、これからの日本を本当に心配されていることがわかりました。

最年長長老の方が、『今回の災害は、日本人が、全てを見直す良いチャンス。反省すべきは沢山ある』と。

松平 忠輝(まつだいら ただてる)は徳川家康の第6男として、江戸城で誕生。幼名は辰千代(たつちよ)。「色黒くまなじり裂け怖ろしげ」という怪異な容貌のため父に疎まれた話で有名、慶長5(1600)年長沢松平家を相続。同7年下総国(千葉県)佐倉5万石を、翌年信濃国(長野県)川中島14万石を拝領。同10年、伊達政宗の娘、五郎八(いろは)姫と結婚。子は側室のお竹の方との間に男子の徳松がひとり。同15年、越後福島75万石に封じられ越後国高田(現在の新潟県上越市)に高田城を築いた。
詳しくは下のURLで、どうぞ
http://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.tadateru.html
(matumidayo2000 ベストアンサーより拝借)

皆様にもお花見をどうぞ









高田城再建後.75万石です。










バスの中から




  


施設と里親との葛藤

施設の子供達が18歳になって施設を出た後サポートをする、里親になる、東北地震で親を亡くした子供達、身寄りがない子供たちの問題。

これらは別問題でありながら、養親に対し要求され求められることは共通。

以下は、里親と施設間に於ける東京都内で提起された種々の問題。ケースワーカーの担当年限、期間を長くし、里親をもっと啓蒙できるようなレベルの高い、資質のある人にしてほしいと。

1.究極、里親と里子が緊張状態になったとき、24時間365日体制なので、1日でも里子を預かるところ、または里親がほっとできるところを用意してほしい。用意し合いたい。
2.1人の子を18歳まで養育し続けないと、「不調」という言葉で、まるでうまくいかなかった力のない里親という「烙印」を押されてしまう感じがある。そうではなくて、この里親さんが ここまでなら、「どうもご苦労様。次はわたしが引き受けるわよ。安心して。」という里親が でるシステムにしていかないといけない。里親OBの活用も必要だと思う。

1.委託後の里親を支える養育の相談機関は絶対に必要である。
2.里親が真の養育力をつけられる教育制度をつくってもらいたい。

A 長期養育でなく、週末や夏季冬季に預かる場合も被虐待児童を更に傷つけることのないように
  専門の教育とトレーニングは不可欠である。

B 里親が真の意味での養育の専門家になれば、地域の子育て支援プランにも重要な役割を果たす
  ことができる。そして近頃よく言われてる「地域で子どもを育てよう」ということにも
  積極的に参加するであろう。里親の質をあげることで「家庭に恵まれない子に家庭を」
  のレベルから多くの子どもたち、子育て中のお母さんをサポートする専門家の一人の立場で
  児童福祉に大きく貢献できることになる。
  里親家庭で子どもを養育させて欲しい。

里親を希望している人たちになかなか子どもがこない。児童相談所、施設と何かすっきりしない流れを、遠くから見ている者には感じます。

1.乳児院から私どもに委託された赤ちやんは、無表情、無気力で驚いた。どんなにかかわりを もっても「特定の人」の関係が結びにくい。乳児院での養育は考えるべきである。 乳児院や養護施設の体験者で、退職後、里親を希望する人もおられる。これらの人たちの専門性 を生かしていただきたい。
2.児童相談所の機能の弱体化、専門性のなさが、里親の開拓に大きく影響していると痛感する。

 児童福祉司やケースワーカーの専門職が少なく、その上異動が短期間に実施されているため、現場に入っても実習経験の少ない方が多い。それゆえ、問題に対する理解に手間取り、的確な指導や判断がなされにくい。特に、緊急時の対応には手が打ちにくく、取り返しのつかないことも多く経験してきた。(短期でもよいので、里親になること、経験することをおすすめする)

3.一時保護所における生活の仕方や指導の在り方、またその期間について疑問が残る。

4.施設養護と里親養護は車の両輪のようなものであると考えるが、トップが施設、そのずっと下が
 里親養護と考えておられるような風潮を感じる。里親制度が「子どもの養護」に果たす役割の
 大きさを、国民全体が見直し、再認識するときが来ている。
5.里親の意見を聞かず、一方的に、直接的に児童福祉司がかわってきて、取り返しのつかない状態と
 なってしまい、里親と子どもが長年にわたって築いてきた絆を一瞬のうちに切られてしまった辛い、
 苦い体験を何回もしてきた。他の里親からも同様な話を何度も聞く。ぜひ、専門職として、
 里親の勉強をされた福祉司やケースワーカーの配置をお願いしたい。


上記の内容で思い出したのは、RCでの長野市の某施設で理事をされていらっしゃる方の発言。私が、長野市の〇〇園は収容人員45名と書かれていたのに70名もの子度達が収容されている。

《これには、施設の職員・建物の規模などを考慮すると、社会事情とは言え、素人の私から見て漠然と大変なこと》と。

ところがその理事様曰く『あそこはそんなに増えたのですか。多いほど経営するのに楽で良いですよ。うらやましい』と。

これでは、子供達が18歳まで一般家庭で里親に預けたほうが良いと思われても、里親にはこない。全部子供たちの幸せ云々とは、関係なく施設に回されているということになる。また、施設の取り合いも感じられる。

確かに虐待されてきた児童にとって、経験不足な里親より、数をこなしてきた施設の職員のほうが子供の扱い方に、馴れもあって適切な事が多いかも知れない。

子供が大好きな里親のところで教育されれば、18歳以後のことはそのまま継続されるだろう。施設では、職員との間にそのような関係ができないことが問題なのだ。

職員数は足りず、手が回りかねない施設に、卒園した18歳以上の子供たちが何時までも甘えられる関係はないということ。

親と子供との養育環境が如何に大切か。

私が知っていたある同業者の社員Yさん、物事に安易で、世の中の見方が浅く人間的深みが全く見つけられない。単純に「どんな、育ち方をされたのかしら」と。

ある時ひょんなことから彼の生い立ちを知る機会があった。長男が戦争に行っていた間に年が離れた弟として誕生。

赤子のときに終戦になり、その長男様が家にご帰還。弟の赤子を邪魔にし、寝ている赤子を蹴る、殴るの暴力。殺されてしまうと思った親は、母親の弟、赤子にとっては,叔父に当たる子のない夫婦に養子として預けたそう。

その養親、誰にもはばからず人前でさえ、《もらいっこ》と吹聴。全てに《もらいっこだから》と。これをお聞きした時、Yさんの全人格を思うと、全て納得できることばかり。

でも世間は狭いとはよく言ったもの。この話は、Yさんの生家(N市でも我が家のS市からかなりの遠距離にもかかわらず)のお隣に住まわれていた方から聞いたものです。子供を育てるのに、如何に愛情と環境が大切か・・・・。

              里親と施設の問題詳細は以下に
       http://www.foster-family.jp/satooya_seido/001225youbousho.html


  


パチンコ地獄より脱出に成功

パチンコに嵌った話題の中で、ぬけられた成功例をお話します。やはり中学の同級生。彼、全く勉強とは縁が無く、記憶にあるのは、机の下で何か、何時も悪戯を。たとえば女の子の足を不意につかんで女子がビックリするのを喜ぶ・・とか。全く勉強に興味なし。

中学卒業後は、鉄工所の丁稚小僧に。しかし、十数年後、彼は、支援してくれる社長に恵まれ、見込まれて独立。

会社は順調に大きくなり、多数の従業員も抱え、立派な社長。と言っても、彼の手をみれば、苦労と過酷な労働の跡がくっきり。

パチンコ、もちろん彼ではありません。彼の従業員のことです。

関西にいたOさん、パチンコで破滅し、夫婦で志賀高原の山中で自殺しようと。偶々志賀高原への途中、同級生の工場前を車で通過。志賀高原に行ったものの、死ぬこともできず。帰途、記憶のある同級生の鉄工場の門戸を叩いた。『死んだ気になってもう一度やり直そう』と決心されて。

雇って貰えることになり、その後、毎日それはそれは,ビックリするほど良く働いたHさん。しかし、 《仕事以外はパチンコに嵌ってしまう》との本人の自白なので、お正月も無く、盆も無く、日曜日も無く、その働いた給料は、社長が代払いしてくれた数百万円の過去の借金の返済に。

何時しか社長への返済も終わり、Hさん又パチンコに嵌るのでは・・・・と社長が心配。社長さん、パチンコにはまらないためにも、『何か、中古住宅を購入させて』と。

購入も決まり、又頭金を社長が代払いしてくれ、銀行での融資を受ける際の事。

奥様と銀行に来られたHさん、銀行借入の書類に署名をする時、『パチンコ絶対しないでいられるか心配』と夫婦でおっしゃいました。

私『ム・・・・・・』困った困った。そんなこと今言われても。暫し、沈黙。考えました。閃いたんです。『連帯債務者の項に、大事なお嬢さん加えて下さい』と。

彼等には、高校卒業後、就職されていたお嬢さんと高校生の御長男が。『Hさん、貴方が又パチンコに嵌って借金を作れば、貴方のお嬢さんが連帯して借金を被る様になるんですよ。大事なお嬢さんに、絶対パチンコの負債負わせたく無いでしょう。
パチンコしたくなった時、必ずその損害は、お嬢様の借金になるんだと想い出して下さいね』と。

Hさん『絶対しません。大事な娘にどんな事あっても絶対に.』

Hさんと奥様、私が言い終わったと同時に、銀行の座っていらしたソファからすっと立ち上がり、カーペットに土下座され、頭をカーペットに擦り付けて『有難うございます。有難うございます』と何度も何度もいつまでも。


今でも忘れられません。私としてもとても《よい判断》をしたと。

あれから15年位過ぎたでしょうか。同級会でお会いした社長さん、何も言ってはいませんでした。Hさん無事なんでしょう。心ある社長に巡り会ったHさんの幸運と、Hさん自身の意思の強さ。

一度嵌ってしまったパチンコは、そう安々と抜け出ることはできません。
  


節電・パチンコ・無駄あらゆる見直しを

関東東北沖地震への復興構想も政府より少しずつ提案され始めた。福島第一原発周辺の居住が長期間困難になった場合の移住策として、内陸部に5万~10万人規模のエコタウンを建設する構想も提案された。

又、復興に要する費用の捻出も何らかの税金で・・・と論じられ始めた。

税金大いに結構。今までそれなりに多くの税金を支払ってきたが、支払った税金の行方は、納得できないことがままあったはず。

東北の復興のためなら、無理をしてでも・・・ということだろう。

石原慎太郎東京都知事が又々『福島第1原発事故に伴う電力不足問題で,パチンコと自動販売機で合わせて1000万キロ・ワット近い電力が消費されている国は日本以外にない。こういう生活様式は改めたほうがいい。(節電のために)国は政令を出せばいい。パチンコする人は我慢なさい、自販機がなくても生きていける』などと持論を展開した。

大手コンビニエンスストアのセブン―イレブン・ジャパンとローソンは、店舗の照明を消費電力が少ない発光ダイオード(LED)照明に切り替えると発表した。

私は、前々から『なんでLEDにしないのだろう?』と。

前にも書いたことですが、パチンコに一旦填ってしまうと、狂ってしまう人は多い。国の政策で、昔ほど、玉が出なくされたそうで、一回に失する損害は以前よりは、少なくなったようだが。

パチンコに夢中になってしまい、家を売る、家族離散になる場合も沢山みてきた。パチンコに狂うと要するに麻薬と全く同じ狂い方。パチンコを数店舗経営する社長さんにこのことをお話し、『問題だよ』と話した。

『だから、面白いんですよ。パチンコの経営は』と。

パチンコは、生きている上で、ストレス発散に必要。無くては生きていく楽しみが無い・という方には、『お気の毒な方』としか言いようが無い。

石原都知事、昔から、かなり乱暴な発言の方。でも、時々的を得たこともおっしゃる。

私は『塞翁が万事馬』とか『災い転じて福となる』とかの諺が大好き。失敗しても、『必ず福に転じる発想に』心を乗り換える術に長けている。

今回の災害での多くの犠牲者並びにご家族の悲しみを、無駄にせずに。

今まで当たり前だと受け止めてきたあらゆる事に対して、 《本当に必要かどうか》 国民一人ひとりが、胸に手をあて、深く考え検討する良い機会ではないでしょうか。
  


これで日本復興出来る?

福島県三春町,福聚寺の住職で作家の玄侑宗久先生のインタビュー番組で『今度の震災で被災地以外の人たちは、自分の考え方、生き方を変えなければおかしい。そうでなければ、犠牲になった人が浮かばれないじゃないですか』と。

エッセイスト斉藤由香さん曰く、『被災地の人たちに同情する前に自分の生き方考え方を変えなければおかしい。東京にいて福島原発のおかげで安穏な生活をしていたのだと猛省する。災害救助の自衛隊陸曹長が殉職し、福島県の野菜農家の男性が自殺したという。なんという不条理だろう。その人たちの死を無駄にしないためにも、私は、真剣に生きなければと思う』と。
(信濃毎日新聞より抜粋)

地震前に戻って、毎日忙しく働き、たくさんの方たちと会話の多い私。どうも長野県は、東北から遠いようで、寄付頑張ろうとかと、日本の経済事情を憂慮されている方に、なかなかお目にかかれない。

私の周りでは、100万円200万円寄付しても何等支障のない方が、たくさんいらっしゃるのですが。たかだか、そんな人に限って、1~2万円の寄付でも大騒ぎしているようで。


ならば、税金で徴収が一番適切ということでしょうか。これ以外に、心ある方、税金に該当されない方たちが寄付・募金を。

長野県では、県や県内の経営者団体、労働団体、市民団体などが、『官民協同』の形を取り、東日本大震災・県北部地震の被災者を支えるプロジェクトの立ち上げを構想していると。阿部守一長野県知事が、岩手県知事に構想を説明されたとのこと。

私が何故、東北沖地震災害の援助に対して、こうも叫ぶのか・・・・答えは簡単、同じ日本人同士、自分を犠牲にするくらいの覚悟もなければ、今の日本、中々元には戻れないのでは・・と。更に、『豊かな、穏やかな、飢える人のない幸せな日本よ。過去のものにしないで!』



日本は経済成長とともに、長い間、自民党政権が続き、お金は誰のものよ?と問われることなく厚生年金基金などが取り崩され、更には、国の借金でもある国債を次々発行。今では、借金漬けの日本経済。その後、バブルの崩壊、アメリカのリーマンショックと日本経済は徐々に衰退し、次第にどん底に。

TVでは、『終戦後の悲惨を乗り越え、これだけの経済発展を遂げた日本、必ず又乗り越えられる』と。でも国民の多くは、一所懸命ボランテイアに協力し、寄付されても、まだまだ災害に対して他人事の方たちが多すぎる・・・と思うのですが。
  


子供を預かる親の心

里子をお預かりする、施設の子供達をサポートする、でも人様のお子をお預かりして、彼等に何が与えられるか? 与えるものは物ではない。愛情しかり、大人としての分別しかり、礼儀作法しかり、お金の大切さしかり、人間は死ぬまで勉強というではないか。

数え上げたらきりが無いほど。おこがましくも、全て与えると思ってはいけない。必ず与えられることも多いはず。与えたり、与えられたりお互い様。


だから普通の家に預かって欲しいと。社会で経済的に成功した人、人様よりちょっとお金持ちになった人、

家族を自慢したり、買い与えた物を恩義せがましくしたり。家は特別なんだよ・・・という態度は絶対とってはならない。
少しのことも、疑ってもいけない。だから、心ある大人だけが携わるべき。

RCの地区協議会での会合で、18歳を過ぎた子供たちを(家族のように家庭に招いて)社会にでてからの子供たちが、向き合っていかなくてはならない問題に、一緒に考え、指導できる関係。それには、私たちが、外国の留学生をカウンセラーとして家族に迎えて、一緒に食事したり、時には一緒に正月を迎え会話を重ねた様に。同じように接して。

会を重ねることにより、子供たちが私たち大人を信頼できた時には、子供たちから、色々な相談がされると思う。その時、親のように聞いてあげたり、助言してあげたりの関係が出来ればよいなあ・と。

『親が無いから、万引きとか無いですか?』とか『いつ、何の勉強を教えるの?』

こんな考えの方もいらっしゃる。出来たら等分は、こういう考えの方には、控えていて頂きたい。でも、こういう方ほど、人前に出て沢山物をおっしゃる。自分は経営者だから、社長だからと。

従業員は、社長おかしいですよ・・とは言ってくれない。己に厳しく自分を見つめる目を持っているかどうか。

普通の家庭で大きくされなかっただけでも、彼らはキズ付いている。自分の不勉強を棚に上げて、子供たちのあら捜しから始まるなら、当分ご遠慮願いたい。

子供たちをサポートする私たち大人の教育が必要になるかも知れない。

私が見てきた施設出身者の大概は、純真であった。ある意味純粋で大人の持つずるさ、悪賢さが余り無い。

これらの性格的特徴は、施設の職員の方々が、純粋に接して下さった事が原因かと。下手なこちらの行動で彼らを傷つけるなら、初めからしない方が良い。

とかく問題がある大人たち。ほとんどは、満ち足りた生活のなかで傲慢・我侭を原因としていることが多い。

だから、RCという組織でなくても、RCの一部の希望者が中心となり、一般の方と力を合わせて、心から賛同する方たちと、共に力を出し合って、お互い勉強し合ってというのはどうでしょうか。

  


地震はこうして起きた?

今日又福島県浜通りで最大震度6度弱の地震がありました。当長野地方も今し方、大きなゆれがありました。一体、日本の地殻の中では何が起きているのでしょうか。

東北沖地震のことで友人から珍しいものを見せて頂きました。

変動ベクトル図1は、地殻が水平に移動した方位と距離。変動ベクトル図2は、地殻の沈下を現しています。

宮城県沖辺り《松山・石巻》は、矢印の方向に地盤が442㎝太平洋側に移動、矢印が大きい場所の陸地全体が矢印方向に移動しているわけで、宮城県とか福島県の平行移動の大きさと、今回地震の被害が少ない日本海側との地殻の移動数のズレが地割れというかたちで起こると。

又、変動ベクトル2によると災害地辺りは、75㎝沈下している。未だ海水が引かないと報道されているが、海水はそのままで、地盤が海水に移動沈下したから水が引かないような現象になる。

地震のこと、地殻的根拠を少し理解した気分です。

変動ベクトル図1 クリックで大きく






変動ベクトル図2 クリックで大きく

 


  


施設の子供たちをサポートしよう!

昨日は、松本市でロータリークラブ(RC)の地区協がありました。RCでは主なる行事としては、アフリカ・アジアの極貧国でのポリオ撲滅のための恒久的寄付。アジアの若者たちへの奨学金(米山奨学金)
これは、日本での私的奨学金としては、最大のもの。長野県では一年間に約20名の外国からの大学生又は大学院生に一ヶ月10万円~14万円の奨学金。

これにはカウンセラーがついて、日本での学究生活に支障ないように生活・精神面のサポートを。日本人の研究者には、外国の大学で学ぶ方たち7~8名がフランス・ドイツ・アメリカ・カナダ等で奨学金を受給。日本の高校生にはインターアクト・ローターアクトクラブを通しての援助等。

さて、今日は各役員ごとの分科会に分かれ討議しました。やはり東北に対する援助をすべきでは・・・との意見が多数を。

今回は、配布された講義書のなかに、初めて長野県内の児童福祉施設の概要が掲載。私達のグループの代表者(分区代理)は、施設の理事をされているとか。で、私の施設への寄付とかの話しも合わせ、それなりに、具体的に討議は進みました。

私としては、18歳以降の施設を出た後のサポートを恒久的に面倒みたいと。これは、奨学金のように多くのメンバーの寄付を必要としないもので心遣い・忍耐の要る努力と愛情を。
これからの日本を背負っていく若者に注いでいこう・・・・と。

本当のボランテイアとは、お金をだしておしまい・・ではなく努力と心遣いをしてこそ尊いものだと、主張。

半分の方は賛同されて、せめて私達北信第一分区だけでも始めようと団結。

中には、何時18歳の子に勉強を教えるのですか・・・などとトンチンカンなことをおっしゃる方も。

日頃から、心かけている人と全く無い方。雑多なメンバーが一同に集まりそれなりのテーマで論議するとは、本当に難しい。日頃ボランテイアと騒ぐ人ほど幼児なみ知識と教養。
心ある人は何らかの形で既に行動されている。

ボランテイアについては、犬養道子書《人間の大地・渇いた大地》は何よりの教科書。でも説明して即理解できた方は何名?

生まれも、育ちも、教育も夫々な集まりって本当に難しい。只、20名ばかりの中でも理解している4~5名ばかりが意見発表する結果で終わりましたが。

私一人で行動できるテーマではありません。今日、ここまでロータリークラブという偉大な組織の中でまとめられたことは大変嬉しいこと。

米山奨学金とは、昭和20年米山梅吉氏が戦争で迷惑かけたアジアの子供たちのために。と始めたことがきっかけの奨学金制度。

いつか日本中のRCで恒久的に引き継ぐことに。受給生の多くは母国で活躍され、日本との架け橋として活躍されてる方も多数。

福祉施設の子供たちへのサポートは、私達長野から発信して、何時か日本中のRCをお仲間に。そんな日になれるまでに頑張ろうと。

一人の力ではなにも出来ない。でも私達は日本の経営者がメンバーのボランテイア組織。みんなの力が結集されれば、強い頼もしい組織となって、日本の国をもっと優しい国に出来るのでは。

更に私達が中心になって、メンバーで無い一般の方にお仲間になって頂けたらそれはもっと嬉しい事。

お知恵ある方は、ご意見などお寄せ頂けたら嬉しいのですが